相手の気持ちになる

人間(じんかん)の苦を思いやり、
親孝行と子供を愛するという当たり前の情を、
衆生にまで広めましょう。

仏教を体得し、尊重し合う

五月二十五日、ポーランドの慈済人に対して上人は、「この縁を機会に、私たちは仏教をその地に広めるべきです。これはそこにいる人々に仏教を信仰するよう要求するということではなく、彼らが仏教を理解し、お互いに尊重し合うよう願っているのです。私たちは愛でもって仏の教えを広め、仏教の善の念を示すのです」と言いました。

また、上人は「合」と言う文字をジェスチャーで示し、「慈済人が心のこもった態度で彼らと接し、私たちが慈済人であることを記憶に留めてもらうのです。このジェスチャーは「合」を意味しており、お互いに分け隔てなく共に善の心でもって、善の友情を築くのです」と言いました。

「皆さんは自分の心をしっかり守るべきで、多くの苦難を目にしたからと言って、心を乱してはいけません。同情心や憐れみの気持ちが起きるのは当然ですが、心を大きく持ち、純粋でなければいけません。私たちは一心に単純な気持ちで人助けをし、人同士が善に解釈し合い、感謝の気持ちでお互いを称賛するのです。様々な国から来て、異なる生活背景や文化を持っているとは言え、皆、慈済人であり、法縁者はお互いに愛でもって励まし合うべきです。「合和互協」という精神を形にする団体として、そこにいる人々に「人間(じんかん)には仏教があり、仏教を信じる人はこのような単純な愛を持っている」ことを知ってもらうのです。

より広く関心を持ち、より深く考える

五月二十六日、人文志業の管理職たちに対して上人は、「楽な生活をして、その日暮らしをする人もいれば、苦しい生活の中で、それを改善する活力に欠ける人もおり、『人生とはこんなものだ』という言葉をよく耳にしますが、それで片付けられてしまっています。朝に酒があれば、朝に酔うというように、環境に流されるままの消極的な心構えでは、警戒心を高めることはできず、なぜ生命に価値があるのかを考えることもしません。大愛テレビは人心を教化する使命を担い、大衆が愛の心を取り戻すよう導くべきです」と感慨深げに言いました。

「仏陀は、衆生を悟りに導くため、一大因縁によって人間(じんかん)へやって来ました。仏陀自身は既に悟りを開いていましたが、普通に食べて、飲んで、休息をとる人間でした。ただ、思考が人よりも深く、詳細だったのです。凡夫の思考は浅く、自分と周りの人・事・物にしか思いが至らず、それ以上の広い範囲に関心を持ったり、より深く道理を考えたりしないので、他のことは自分とは関係なく、『人生とはこんなものだ』と思ってしまうのです」。

大きな環境の中、一個人の力は微々たるもので、何かを変えるのは難しいかもしれませんが、それだからといって、本来ある能力を諦めてしまってはいけません。誰もが縁を逃さず良能を発揮するようにと、上人は励ましています。「一人ひとりの能力は全て異なり、誰もがその潜在能力を持っていますが、全てが備わっている人はいません。私たちの潜在能力を啓発するには、各自の得意な分野の能力を十分に発揮して人々の目を引きつけ、自分の周りに留まっていた愛を広げて環境を大切にし、衆生を愛護するように目覚めさせるのです」。

上人によると、親に孝行する、子供や孫を可愛がることは人として当たり前の情ですが、その情は自分と関係のある人にだけ向けられていて、それを広めることができないのです。人々の親情を衆生に広めるには、心に感じ入る場面を見てもらい、相手の立場になってこの世の苦難を感じるよう導くのです。例えば戦争のニュースの場合、一旦起こってしまうと残酷に人々を傷つけ、悲しみが生まれてしまうことを知らしめています。「人傷つけば我痛み、人苦しめば我悲しむ」という悲しい光景が報道されなければ、それは真実ではありません。報道の中から人々は悲しみや苦しみを感じ、幸いにもまだ自分はそのような苦痛を味わっていないことを知り、そこから自分の幸福を大切にすると同時に、苦しんでいる人に奉仕するようになるのです。

幸福な人生は偶然ではない

五月二十七日、高雄オンライン読書会のチームが上人と座談しました。上人は皆に、「慈済人は蛍の光のようなもので、小さな台湾から世界のこれほど多くの国と地域にまで広がって、光を点滅させています。それは、慈済人が長年、大衆の愛を結集して世の中の衆生のために奉仕しているからです。

「奉仕できる人はとても幸せです。この幸福は偶然ではなく、この数十年来、誰もが『慈済の仏法』を拠り所にして、どのようにして奉仕するか、それも見返りを求めないという殊勝な奉仕を学んで来ただけでなく、常に『感謝』の気持ちを持つようになったからです」。

上人は、慈済人が贈ったプリペイドカードが難民を支える力となっていることについて話しました。戦争がいつ終息するのか分からない中、どれだけの間故郷を離れた生活をしなければならないのか予測できない彼らにとって、そのお金は、少ないながらも安心をもたらすことができたのです。

「彼らが悲しみと苦しみの中を浮き沈みし、未来の方向も分からずにいるのを見て、私たちは哀れみの心を起こし、次のように大衆に呼びかけるべきです。『ご飯を一口だけ少なく食べて、お金を少し節約して、余った分を寄せ集め、心を一つに協力し合って苦難にある人を助けましょう』。彼らはいつになったら自立できるか分からず、今は不安でいっぱいで、関心を持って支援してくれる人をとても必要としています。彼らにこの世の温かみを感じてもらうのです。彼らをサポートすることは自分が幸福になることであり、奉仕できる人は、即ち幸せな人なのです」。

(慈済月刊六六八期より)

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